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「花を運ぶ妹」 池澤夏樹

  • 2015年1月17日
  • 読了時間: 7分

これからしばしば、心に残った本の話をしたためていこうと思います。

まず最初を飾るのは、池澤夏樹の「花を運ぶ妹」。

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パリの小さな旅行会社でアルバイトをする妹カヲルと、日本ではイラストレーターとして活躍しながら、東南アジアの国々に魅せられ放浪の旅をする兄テッチ(本名:哲郎)。

中学の頃からイラストや美術の賞をとりまくっていたテッチと両親は「衝突のしようもないほど軌道が違って」おり、テッチは高校卒業と同時に家を出て行った。

カヲルも哲郎が高校を出てからは彼とわずかしか顔を合わせず、自身もまた大学の雰囲気に耐えられず、パリへ逃げてしまう。

そんなある日、家族に知らせが入る。

麻薬の不法所持の嫌疑で、バリ島で哲郎が逮捕され、最悪の場合は死刑の可能性もあるとのこと。

何かの間違いだ、誰にもテッチを殺させはしないと必死の思いで助けに向かった妹カヲルを待ち受けていたのは、心が壊れて檻の中に囚われるヘロイン中毒のテッチの姿。

テッチの死刑が濃厚となるバリのメディアや政治に翻弄され、孤軍奮闘で心が折れそうになりながらも、カヲルはいくつもの洗礼の水を潜り、思いもよらない方法で兄と自分の運命を変えていきます。

生の快楽と死の快楽、西洋と東洋、善と悪、乾いた石畳の道と水でにじむ空気、妹と兄、外側から見ることと身体で体験すること、自然と人工物、理性と誘惑、目に見えるものと見えない祈り、人間と神々。

決して交わらない相反するふたつのものが交互に現れそれぞれの物語が語られながら、

兄と妹が自分の身体を取り戻していく物語です。

〜哲郎〜

あるとき、雨のそぼ降るチェンマイ近郊の小さな村でスケッチブックを片手に旅していた哲郎は、ドイツからやってきた「西洋の魔女」インゲボルグに出会い、低い魅惑の声で囁かれる。

「冷たい死の世界からこの世に生まれ出て、しばらくの間は暖かい空気を呼吸して、体内の複雑で微妙な蛋白質たちのオーケストラに聞きほれて、ものを食べたり恋 をしたり、日の光を浴びて寝そべったり、それがこの宇宙でいちばん素晴らしいことだって、みんなが言っている。生命の賛歌、エラン・ヴィタール、春の祭典」

「あなたの絵はいいわ。でもそれはすぐに萎れる花を描いているからいいんじゃない。そ の花の後ろに、一輪の花を超えた永遠の時間が見える時だけ、あなたの花の絵は美しいの。生命は短いけれども、それはもっともっと長い、ゆっくりした、岩の 時間によって背後から支えられているから美しく見えるだけ。本当はあなたには全部わかっていることでしょう。」

存在そのものが至福であるという生の理想の姿。東洋的な極楽の実現、生きたままの死。どう見ても極楽にしか見えない地獄。生きたまま死ぬこと、植物に、岩になること、十万年を生きること。「岩の快楽」、死の魅力をゆったりと語るインゲボルグに誘惑されたテッチは、ヘロインから抜け出せなくなり、東南アジアへ出かける度に死の快楽を味わうようになっていた。

そんな中である日バリ島の警察所長の陰謀にはまり、哲郎に突然死刑という現実が襲う。

死の快楽に溺れている哲郎が、現実の死と向き合うこととなり牢獄で地獄のような日々を過ごす中で現れたのは、数年来会ってさえいなかった妹。自分の命の鍵は妹に託された。

現実の死に直面した哲郎が牢獄の中でわかったことは、「死の快楽」は本物ではなく、自分の芸術に必要なものは、死の息吹ではなかったということ。もうすべてが手遅れかもしれないと激しく後悔する中で、哲郎が手に取ったのは「生の快楽」だった。

ベトナムの田舎で出会ったアン(母親)とタイン(息子)。

南国の太陽の光、子どもたちの屈託のなさ、生の快楽。

高校生だったときに描いた妹カヲルの絵。

重たいブーゲンビリアの鉢を運ぶカヲルが用心深く光の世界に入っていく姿勢に魅せられ、

画家として生きることを決めた原点。

幼い頃、初めて描いた絵。道路の上に夢中になって生み出した太古から生きたの人たちの顔の列。

牢獄の中で「死の快楽」から意識が離れてゆき、「生の快楽」を思い出していく哲郎の姿、

そして3年の刑期を経てアンコールワットのバライの水をくぐり、闇(死)を知りながらも

光(生)を選び、その中に溶けてインゲボルグから堂々と離れていく姿はとても印象的。

〜カヲル〜

大きなうねりの中で様々な思惑や人々の好奇の視線に晒され、心身ともにすり減り、ホテルの中から一歩も出られなくなってしまったカヲル。

バリ島に来てからは囚われのテッチのことばかりを考え、どんどんバリ島のことが嫌いになり、心はいつも不安で急いでいた。

死刑をひっくり返すことは絶望的となり息をすることもやっとのカヲルが、重たい身体を引きずりながら無理矢理連れてこられたのは海に面したウルワトゥのお寺。そこでカヲルは不思議な体験をするのだ。

海の大きくゆっくりと舞うような波のリズムに呼応して、こわばっていた精神がほぐれ、静かに穏やかになっていく。

自分自身と事態を蝕んでいたのは、事態ではなく、実は自分だったのではないかということ。

自分の心の状態こそが現実に反映して、状況がどんどん悪くなっていったのではないかという考えが頭の中をよぎり、「わたしが変われば、全体が変わるかもしれない。」という予感を得たカヲル。

この地面の上にしっかりと立とうと決意してまわりを見わたしてみると、今まで無視していたみんなの顔が、島の自然が、突然自分の中に肉迫してきた。

すると、なぜかはわからないのに涙があふれ、嬉しさがこみ上げ、我慢できずに海の中に座り込む。頭まですっかり水に入り、自分の身体を撫でてみると、奥の方から湧いてくるものがあった。

頭や心で身体中がいっぱいになっていたカヲルが、忘れていた自分の身体「今•ここ」を取り戻したら別の運命が現れれ、嘘で固められた状況証拠が明らかになり、死刑判決が覆ったのだった。

裁判を終えたカヲルが、あの決定的な日のことを思い返すシーンがある。

”ここでは、アジアでは、祈る姿勢になることが、一心不乱に願う姿勢になることが神様たちを呼び出す。バリには神様がたくさんいて、一所懸命に祈ればこちらを向いてくれる。自分を信じよと迫ったりせず、信仰と御利益を交換せず、ただ憐れみの気持ちからこちらを向いてくれる。

そういえば、インドネシアは全体としてイスラムですが、このバリだけはヒンドゥーだった。

たくさん神様がいて、中には異国の若い女の言うことを聞いてくれるのもいらっしゃる。

だとすれば、ウルワトゥに行く前の最低の日々、わたしはちゃんと祈っていたことになります。

あれは祈りだった。わたしの心は祈りの姿勢になっていた。そしてわたしは兄が救われるという運命に乗りかえることができた。わたしはそう考えることにしました。”

その後もバリ島の自然やそこに生きる人々、伝統の舞踊などに魅せられたカヲルはバリ島をたびたび訪れるようになるのです。

テッチにとっては、カヲルがいたから命を救われた。

カヲルにとっては、テッチがいたからバリと出会えた。

不幸のどん底としか思えなかった現実の先に、こんなふうに思える未来が待ち受けているなんて、

信じられないと思うけれど、なんだかきっとそんなことがあるのがこの世界なんだろうって素直に思えてしまう作品。

祈りの姿勢が、「今・ここ」を生きることが、運命を変えていく。

エロス(変な意味じゃなくて、、)が感じられる、身体の感覚がはっと呼び覚まされるような不思議な魅力のある作品です。

さいごに・・・

善だったものが悪になり、悪だったものが善にも入れ替わる。

「相反する2つのもの」も、この物語のテーマ。

不思議な魅力をもったヒンドゥーの神話、永遠に戦いつづける魔女ランダと怪獣バロンの話が

この物語の終わりに象徴的に語られていますが、仏教ともキリスト教ともちがうこのヒンドゥーの神様たちの話は、他の池澤夏樹作品にも登場していて、実に魅力的です。

またそのお話も書けたらと思っています。


 
 
 

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